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 100万人の中国語


その105.日本人だからこそなれる、日・英・中の使い手(30)

  前回、私自身の感慨として、「言葉は、人類にとって、最大の習慣の一つであり、民族や種族によってかなり異なるものだ」と述べさせていただきましたが、最近、長い間日本語と英語を研究されてきた堀素子氏のブログ(『シニア女性の辛口世評』)の中で、奇しくも、次のような発言に出合いました。是非、皆様に読んでいただきたいので、少し長くなりますが、以下に、引用させていただきました。

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  現在の言語学では、世界のすべての言語は普遍的な共通事項を有していて、たまたまさまざまの要因によって表出される形が異なる、ということになっている。何が普遍的か、を極めようとする一派がある一方、現在見られる多様性をそれぞれの言語の個性と見なす、という一派もある。大雑把にいって、前者は西洋諸語を基盤とする研究者、後者は非西洋諸語を基盤とする研究者の立場である。

 その理由はいわゆる西洋諸語はほとんどすべてラテン語からインド・ヨーロッパ祖語にまで遡ることができ、基本的にはきわめて類似性の高い同系のファミリーとして括ることができる。一方このファミリーに属さないその他多くの言語は、地理的な散らばりと残存する資料の不足から統一的な研究が進んでいない。そのためこれらに共通する普遍性よりも個々の独自性の方に注意が奪われることになる。

 私はもちろん後者の立場で、日本語と英語では同じ自然情景の描写・類似の心理状態の説明でもまったく違ったアプローチを取る。それはなぜか?人と対応する場合に、同じ表情・同じ動作がまったく別の意味に解釈されることがある。それはなぜか?その溝はどうすれば埋まるのか?人間としての普遍的共通性をどこまで容認すればよいのか?

 このようなことについて私はいくつか論文を書いてきたが、それが日本の英語教育にほんの少しでも影響を与えたとは思えない。私のほかにももっとりっぱな論文や著書を書いた人は大勢いる。が、それが現実の英語教育にどれほど活かされて来ただろうか?こうして研究者という集団の力の無さをいやというほど思い知らされてきた。

  まもなく大学という場を去る私は、これからは研究者という立場から発言することはできない。しかしこれまで携わってきた言語の研究を1つの支えとして、より広く社会全体の現象を見てみたい。とりわけ日本・日本人・日本語を外から見る視点で眺めてみたい。これが多分7月に私がこのブログを開設した目的であったと思う。

(続く)

 

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