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  中国産業レポート    上海平野磁気有限公司    董事長 平野 信幸


第11回 <歴史に中国を観る> 第壱項
      

 中国の歴史を遡ると、黄河文明に辿り着く。
黄河文明は、ナイル、チグリス・ユーフラテス、インダス文明と共に、四大文明の発祥として知られている。黄河文明は他の文明と比較し、特異性をもっている。それは、他の文明は遥か昔に歴史の中に埋没してしまったが、黄河文明の基盤だけは、営々と発展継承されてきたことにある。

 なぜ、黄河文明だけがその存続を許されてきたのであろうか。この歴史的事実はその結果として、西洋文化と、中国(東洋)文化の違いを生んだものと思われる。現代における西洋文化と中国文化の大きな相違点は、文字の違いに見ることができる。中国は世界史に残る、紙・鉄・火薬・羅針盤の四大発明と共に、漢字を作った。

 漢字は中国文化・芸術の基礎となり、その思想や社会形成にまでも「決定的な役割を果たした」と、言える。漢字はその文字ひとつひとつが意味をもつ、表意文字である。それに反して、中国と日本以外の国では、表音文字が使用されている。(日本の漢字の多くは、中国より学んだものである。嘗ては韓国も漢字を使用していたが、現在では公式には使用されていない。)

 古代文明、発祥の初期においては表意(造形)文字からはじまったのではないかと推測出来る。しかし、それがある社会的要因によって、出来る限り文字に意味を持たせない方法が選択されたのではないだろうか。そして、中国ではその必要がなかったものと考えられる。いや、「表意文字の継承・発展が必要であった」のでは、ないだろうか。

 「その要因とは、何だったのか」、その時代の社会的背景は近代・現代との、合わせ鏡であり、現在の社会構成と大きな相違はないもと思われる。その要因のひとつが、身分制度の違いではないかと思える。(西洋的文明においては、奴隷制度の容認は二十世紀まであったし、現在でも出生による身分制度、差別的要素は多くの国に残っている。)

 黄河文明以外では、主従の関係が厳格に社会制度に繰み込まれていたものと思われる。文化や技術の伝承は限られた社会(コミュニティー)の中のみで行われており、むしろ外部に流出するのを防止する必要があった。それは、主従が厳格な制度の中にあっても、ある日、突然に「ヒーロー」が出現し、主従の逆転を経験したからではないだろうか。

 その過程において、多くの人が理解し易い表意文字が、「主従逆転のきっかけとなった」ことを、知ったのではないかと、推測される。そして、「権力の維持・継承には、情報を限定した範囲でのみ活用することが重要である」と、認識するに至ったものと推測できる。

 それは、演説(アジテーター)はどんなに能力があっても、同時に数百人しか感動を与えることは出来ないが、文字や文章による情報・意思の伝達(社会的不満)は、時間と空間、そして民族・国家体制をも、超越することが可能だからである。

 一方、黄河文明においては、肥沃で広大な土地に恵まれていた為か、明確な主従の関係は紀元前千年頃まで待たなければならない。否、民衆の中においては、過去から現在に至るまで、「主に対する絶対的な従の意識、国家に対する帰属の意思は無かった、無い」のかもしれない。

 紀元前八百年頃から、百花繚乱・群雄割拠する、春秋時代がおとずれ、戦国時代を経て、紀元前二百二十年、秦の始皇帝によって、世界史に残る「最初の帝国」が出現した。(ローマ帝国は更に二百年後のことである。)

 それまでの混沌とした時代には、在野に人材を求める(身分を問わず、能力のある人を登用する)制度は社会的認知を得ており(必要性があった)、その人材の出現を促すかめにも、「民衆が親しみ安い表意文字であること」が、必要であったのであろう。

 中国の思想文化の基礎なる、儒教・道教はこの時代に生まれ、歴史的偉人の多くもこの時代に排出されている。それらの人々の殆どが、身分の低い階層出身であり、彼らが生まれた要素の一つが、表意文字の存在ではないかと考えられる。

 始皇帝は韓非子の教えを受けて、中国の統一を実現した後、儒徒の排除(?殺)と思想的書籍(儒書)の処分・発行の禁止を行ったが(焚書?儒)、漢字文化は継承し、いや漢字の全国統一さえ行った。(火事は消したが、火種を広げた)そのために、「帝国設立」と言う、歴史的偉業はわずか十五年でその幕を閉じる結果となった。

<秦帝国と始皇帝>

 秦は戦国時代にひとつの地方国家として出現した。(現在の四川省付近)孝公(前三六二年即位)の時代、商鞅が「左庶長」(法令の発布と執行)に任命されると、「墾草の令」(変法の令)を発布した。(「墾草の令」の基本は、農民保護と農耕奨励である。国家の基盤は古より農業生産と人民にあると悟られていた。)その第一条は次のように制定されている。

第一条 民の請願や申請などの書類を官署で宵越しさせず(不宿治)、当日中に必ず処理すること
(この制定は現代社会においても充分通用する内容である。一九七〇年に、千葉県松戸市において「直ぐやる課」を作り、話題になったことがある。その人(松本和那氏、現衆議院議員)が後に、薬品・化粧品を取り扱うドラッグチェーン店「マツモトキヨシ」を展開した。松本氏が、「この故事に習ったのか、否か」は、不明)

 商鞅は、「法は国の基準をなし、いわば尺度や秤であり、君主はその目盛りを読む存在であって、私によって、法を施行してはならない」と、孝公に説いた。これは現代の法体系の基盤であり、原則となっているものである。
この「天秤」の考えは、最近設立した「国際法廷」の「シンボルマーク」となっている。

 「墾草の令」の厳格は執行(「賞則必多 威則必厳」)と「連座制」(罰を犯した者の罪を親族・組織に連帯責任を負わせる)によって、戦国時代を生き抜き、それが中国統一の基盤となった。この厳格な執行は、天子(孝公の子・後の恵王と兄弟)にも及び、そのために怨みをかって、自分が作った法によって処刑されることとなる。

 商鞅から二百四十年後、韓非子の出現によって「秦帝国」が誕生した。韓非子は戦国時代の「封建制度」を排し、新しい社会秩序と法治国家の建設を唱え、「中央集権国家」の必要性を始皇帝に教えた。
                           ・・・つづく・・・

<戦国時代の偉人達>其の壱

管仲と鮑叔
 
共同の事業で財をなした後、貧民救済と無料の学習塾・練武館を開き、斉国(山東省付近)の公子教育係となり、公子の即位(桓公:前六八五)によって、管仲は宰相(首相)、鮑叔は国王(桓公)の相談役として、生涯信頼を分かち合った。そして、後代の詩人によって
"・・・君知るや、世に管鮑の交わりのあるを・・・"と詠われた。

 管仲は施政の施行にあたって、信賞必罰と立法を行い、「法の前には全ての人(王も含め)が等しく守られ、罰せられると」説き、それを執行した。「民は自然災害には怨みを抱かない。これは、全ての人に分け隔てなく(人為的区別無く)訪れるからで、法による公正無私の執行は怨念を残さない」と、二千七百年も前に法治国家の基礎を築いた。

 二人共に在野の士から身を興し、登用された人物である。

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2003年3月〜12月
「上海国際貿易展覧会場」(古北)
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